今日は久しぶりにContrailとCan You Feel This Loveのプレイリストを聴いて出勤。この2曲は朝にピッタリ。
行き帰りの電車の中であれこれ思ったことを思い出そうと、コントレを聞きながらブログを書こうかと思ったけれど、やっぱり書けない。
他の人の曲を聞きながら書くことは容易にできるのに、安室さんの曲を聞きながらブログを書くことがどうしてもできない。
聴くこと考えること書くことの両立ができないのかと思ったけれど、通勤中にふと思ったことをiPhoneに書き留めることはあるから、両立ができないというのは違うみたい。
タイピングの問題なのかな。
そんなことはまぁどうでもいいか。
2013年のライブ音源を聴いたあとに、2014年のライブ音源を聴くと(ブログを中断→音楽を聞く→止める→ブログに戻ってきて)声に差があるのに気づく。
2013年のほうがハツラツした声で(もう一度聞きに行く→止める→ブログに戻る)2014年の声の落ち着きというか重厚。キャンフィルでもそれを感じるから単に録音の差によるものなのか。もしくはアンコール(2013年)と本編(2014年)での安室さんのテンションの違いが影響しているか。そんなことを考えながら声の違いを楽しんでいる。
昨日の君の涙聴くたびに、私もこんな風に人から救われたなと思ったり、
だれかの明日を変え
そのだれかの言葉が
いつか 君の涙 掬う
いま生きるこの時が
なにかの間違いで
もしあの分岐点へ
戻れるとしても
私は 選ばない
答えは自分で探す
仮定に 意味はない
そこに君がいないなら
2012年に引退を考えていてできなかった発言を聞いてから、なんでもかんでもそれに結びつけたいわけではないんだけれど、どうしても考えてしまう。
毎回聞いてわからないと思うのが「仮定に 意味はない そこに君がいないなら」。仮定に意味はないは理解はできる。(私自身はそうは思わないけれど)「そこに君がいないなら」がわからない。
逆を言うと、そこに君がいるなら仮定に意味はあるのか、とか。なんとなくわかりそうだけどちゃんとわからないのが「君」の存在。
ワンセンテンスごとの「君」の存在は理解できるんだけれど、全体を通したときに「私」と「君」の関係性が、「そこに君がいないなら」でわからなくなる。
なんかわかりそうでいつも分からない。わからなくても良い曲なことに変わりないから全然問題ないんだけれど、分かったときにまた別の景色が見えてきそうでそれがちょっと楽しみ。
それにしても、500回ライブのContrailを歌ったあとの安室さんが話した「これからも良いコンサートができるよう努力します」は本当にすごい言葉だなと思う。「これからも応援よろしくお願いします」等、よくありがちなお願いではなく、自らの行動を、サプライズの場で明言できるって簡単に言えない。
あくまで自分(安室さん)の行動あってこそ、ファンがいてくれるという思いが強いからこういった言葉に現れるのかもしれない。しかも、その言葉を恥ずかしがって話す姿がほんとに可愛くてズルい。